身体の部屋

スポーツと人間教育

2007 年 12 月 5 日 水曜日

スポーツマンも間違いはする、それは人間だから。しかし、スポーツマンが犯罪とは何ごとか。スポーツはそれだけでは、何らたいしたものではない。人間教育とスポーツが両輪となったとき、初めてスポーツは輝いてくる。人間教育の抜けたスポーツ指導などは、ただの野蛮な筋肉だけの舞台である。

人間教育というのは、赤ちゃんとして生まれた時から行われる。ジュニアスポーツの指導者からプロスポーツの指導者まですべての指導者が、まず人間教育という考えを持たなければならない。だから、発達段階のどの段階で触れ合う指導者も、人間教育を行わなければならない。

指導者にとって、競技者は闘うための駒ではないし、自分の栄光や名誉のために自分の前を通り過ぎていくだけの者でもない。今は、勝つことにだけ意義があり、あまりに勝つことに拘りすぎて、大事なものが忘れられている。勝てば官軍というが、幕末鳥羽伏見の戦いで勝った薩摩軍が立てたのは「ニセの御旗」であった。スポーツで勝つことは大事だが、勝つことだけがすべてではない。

勝ちたいという思いで競技者を集め、勝つための指導しか行なっていない指導者が多い。それは、スポーツへの侮辱である。ジェントルマンと野蛮人を分けるのは、スポーツと人間教育が両輪となっているか否かだ。スポーツで通用する以前に、人間として社会で通用しなければならない。

何のためにスポーツマンシップがあるのか考えてみよう。それは、スポーツを行っているときだけではないはずだ。社会に出て、様々な人と生きていくときにこそスポーツマンシップが必要になり、そこで発揮できないスポーツマンシップなどいらない。

すべてのスポーツ指導者が、挨拶から始まり者の正邪・善悪を指導し、人間としてどこに出しても恥ずかしくないように導かなければならない。人間教育は、いくらやってもやりすぎることはないし、どこまでいっても終わりがない。

スポーツが、あまりに美化され飾られすぎているように思う。スポーツは、所詮スポーツ以上でもないし、スポーツ以下でもない。

矢野

サイト検索

カスタム検索

活動履歴

関連図書&DVD購入