身体の部屋
ナンバは身体で考える
2010 年 4 月 21 日 水曜日ナンバは、身体の快・不快を基準にして動きを判断していく。それは、自分自身の動きだけに留まらず、対人関係でも好きな人と対面すれば身体が喜ぶし、嫌いな人と向かい合うと身体が強張るなど人間関係にも応用できる。このようなつもりでやってきたが、まだ修行が足りない。
三月の末に、三十年位前に教えた生徒たちがすっかり大人になっての同窓会に出席した。それはそれで面白かったし、いい歳のとり方をしている者もいれば、波乱万丈の人生を歩んでいる者もいた。自分のことは大棚に上げて言えば、みんな生きていけるものであるし、素晴らしいなと感心する。
私にとっては、今はどうであれ、15,16歳のときの子どもに見えて仕方がない。それでいろいろ話をしたが、後で理屈で説明が多くなったし、説教臭くなったと言われて非常に反省をした。三十年前は、ナンバには取り組んでいなかったが、とにかく理屈は少なかった。
何も説明せず「いいものはいい」「ダメなものはダメ」これだけである。しかし、生徒は育つもので、いまになって「なぜ、理屈で説明するのですか?」と聞かれても困る。理屈は極力省いているつもりであったし、説教はしないはずであったが、現実は少々違っているようだ。これではいけないと初心に帰り、今年からは説明は最小限に、説教などしないであっさりと見放す。育てようなどと、大それたことは考えないでいこう。
大いなる反省であるが、教員というものは、どうも説明したがりになるし、説教臭くなる。これがよくない、たかだか教員で、生徒とどのくらいの違いがあるか、何様のつもりだと、穴があったら入りたいくらいのものである。そして、もう一つ言われたのは、「迫力を持って言い切ってしまえばいいではないか」ということであった。そういえば、最近は迫力に欠けていると思う。よし、今年は迫力を持って言い切っていこう。
守りに入っているのではないが、最近は頭で考えているようで、身体で考えていない。理屈なんか何の役にも立たないし、理屈で人は動かせないと確信した。やはり、身体である。身体で考えて、後は迫力を持って行動に移すだけのことである。そういう単純なことを忘れがちであるから、たまには昔の教え子に意見してもらうのも非常にいいことだと思う。
私はすっかり忘れていたが、サリンジャーの「ライ麦畑で捕まえて」を当時何の説明もせずに、ただいいから読めと薦めたらしいが、みんなはそれを覚えていて、ほとんどの者があの本を読んで良かったといってくれたことは嬉しかった。三十年前に、高校生に対してサリンジャーを薦めたというのは、我ながら天晴れである。本のことは何も説明せず、読んだかとも聞かないのが当時の私で、強引であり迫力もあったと思う。
今年は、もう一度初心に帰ろう。
4月21日 矢野
