身体の部屋

箱根駅伝で考える

2008 年 1 月 9 日 水曜日

今年も正月は、箱根駅伝で明けた。二日間の長い時間を箱根のテレビ中継を見ながら考えた。
各大学の長距離選手が、箱根を目指してトレーニングを積み、その成果を出そうと懸命に走っていた。しかし、疑問は感じる。関東学連選抜という箱根駅伝にチームとしては参加できない予選会で落ちたチームの寄せ集め集団が、並み居る強豪校を抑えて4位に入った。このことは、いろんなことを考えさせる。
箱根を目指した関東の多くの大学は、一年中の勝負を箱根に絞っているところも少なくない。トラックでの勝負は二の次にして、駅伝だけを目指しているところもある。そして、シード権を持たない大学は、予選会から参加をする。チーム一丸で一斉指導、一斉トレーニングである。目標は箱根であり、それに向けてのチームである。
しかし、寄せ集めの関東学連選抜が4位に入った。関東学連選抜は、チームとしては出来るだけ上位を目指すというものであろう。そして、何回かの合同練習は行ったにしても、基本的には個人が所属するチームでの練習である。チームとしての明確な目標があるわけでもなく、一斉指導も一斉トレーニングもない。いわば個人が自分の力を付けて、発揮しようとして準備をしてきている。そこでは、個人の自分で考えるということが大事になってくる。自分で考えて準備をし、本番で力を発揮する。それで、十分に勝負が出来ている。
大学の駅伝チームで、指導者が一斉指導を行ない、トレーニングメニューも与えて管理を行う。そのことが、競技者から考えるという大事なことを奪っているのではないか。競技者をレールの上に乗せて、勝負のための駒のように動かしているのではないか。それは、指導者の自己満足でしかない。
日本のスポーツ界は、競技者が自立できていないと指摘されることが多い。指導者が教えすぎるのか、指導者の名誉のために動かしているのか。その両方の比重が多いと思う。もっと競技者個人の自覚を促すような指導を行なわないと、強くもなれないし見ているものをシラケさせる。指導者の強制的な管理からは、たいしたものは生まれない。もっと一人ひとりの競技者が、自分で考えられるように指導しなければ、ただの見世物に堕落してしまう。

矢野

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