身体の部屋

身体能力だけじゃないだろう

2010 年 6 月 21 日 月曜日

毎日毎日、暇さえあればワールドカップのサッカーを見ている。それは世界のトップレベルのプレーが見られるので、引き込まれて真剣に動きを見ることにもなる。ヨーロッパ、アフリカ、アジア、南米など、様々な人種が、サッカーという競技を通じて様々な動きを見せてくれるのが面白い。
それにしても、アナウンサーも解説者もスポーツの動きに関しては、何も分かっていないのだろうか、それとも知らないのだろうかと疑う。私も関心をもっているが、アフリカや南米の選手たちの動きを見て「身体能力が高い」しか言えないのは、情けないのを通り越して呆れてしまう。身体能力が高いだけで、動きは一緒なのかと言いたくなる。身体能力は後の話で、動き自体が違うのである。なぜ、そこが分からないのだろう。

例えば、日本と対戦したときのカメルーンのエトー選手は、日本ゴール前で三人に囲まれてもスイスイと抜いていった。これは、我々が行っているナンバの動きと共通したものがある。身体を頭上から見て四角だったものを平行四辺形につぶして抜いていっている。この身体の使い方が、ヨーロッパやアジアの選手とは違うところだ。

こういうナンバと共通した身体の使い方をしているのは、アフリカや南米の選手たちである。彼らは一流になるまでは、練習環境も整地されていない広場のようなところであるし、子どものころは靴も履かずに裸足である。そういう自然のかなでサッカーという競技を行っていると、動きも自然なものとなり、我々が行っているナンバと共通した動きが出てくるものと思われる。

そして、サッカーにおいても、アフリカや南米の選手から学ぶべきは、身体の動きであるはずである。そのためには、しっかりと動きが見極められなければならない。指導者とは、動きを見る目を養い、動きが見極められなかったら指導者とはいえない。

動きを分析するとは、ビデオや映像に頼るのではなく、自分の目で見て分からなければ単なる節穴である。節穴のような目しか持っていない指導者が多すぎるし、それでは指導できないだろうといいたくもなる。先入観を持たずに単純に動きを見て、何故だろう、どうしてだろうと、疑問を持ちながら見続けないと動きを見る目は養えない。まずは、目を鍛えることだろう。

「身体能力が高い」などという曖昧な言葉で片付けていては、進歩はない。身体能力ばかりに目がいき、そればかり課題とするから、役にも立たない筋肉を鍛えることになり、身体を重くするだけで一向に動きは改善されない。動きの改善以外に向上することはない。もう少し「動き」というものを大事にしないと、スポーツも日常生活もあったものではない。動きにもっと敏感になろう。動きに敏感になれば、身体とも会話できるようになるだろう。動きの重要性を言い続けるしかない。

6月21日 矢野

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