心の部屋

快を求めればいいのに

2010 年 5 月 5 日 水曜日

ちょっと自分を振り返ってみよう。どれくらい不平、不満、愚痴のたぐいを言っているか。そういうことを言っているということは、不快に対しては実に敏感ということである。ちょっとした不快なことでも、見過ごすことが出来ないし、気になって仕方がないということである。そんなに不快に敏感だから、快を見過ごしてしまっていることになる。

どれだけ快を見過ごしているかといえば、最近何かに感動した事があるだろうか、誰かを誉めたことがあるだろうか、心も身体も軽く感じツースキップを踏んだことがあるだろうか。ほとんどないのではないか。それよりも、心の底から笑ったのは、いつ以来のことだろうか。そんなだから、生きていても面白くないし、人生って何なのだろうなどと考え込んでしまう。自分で面白くなくしている。

自分の目の前を、快と不快は同じだけ通り過ぎて行っている。その通り過ぎているものの中で、不快だけを掴み取っている。それなら、笑顔は出ないし、面白くもないだろう。不快なことは見過ごして、快に敏感になり、掴み取ればいいのに。

やはり人間が贅沢になり、傲慢になっているのだろうか。少しくらいの快なら、見過ごしてもいいし、いらないやと思っているのだろうか。小さな快に気がつかないと、大きな快などやってくるわけがない。ちょっとした変化、ちょっとした快に気がつくような繊細さを持ち合わせていないと、いつも大きな不快に包まれる。

ちょっと周りを見回してみよう。空の色だって冬とは違ってきている、その快を感じるようにしよう。空を見る余裕が、快を感じる余裕にもつながる。草木の緑だって、違ってきているではないか。服装の色彩に気を向けるのではなく、自然の緑に注意を向けたほうが快を感じられる。風の音を聞いたか。イヤホンで人工的な音楽を聴くよりも、風の音のほうが快いことを忘れるな。

少しの注意の向け方で、世界はまったく違ったように感じられる。いつもと同じ、どうせこんなもの、いいことなんてない、という考えに縛られていることが、自分を窮屈に不快のなかに閉じ込めている。

快に敏感になったからって、何も悪いことではない。ちょっとした快を感じることで、幸せを感じられるならいいではないか。誰でも幸せになっていいのだし、幸せになることにためらうことはない。いろんな快を感じればいい。ゆるやかや顔をして、もうちょっと見方や感じ方を変えてみよう。

不快よりも、どうせなら快に敏感になったほうがいい。そのほうが面白いし、幸せやで。

5月5日 矢野

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