教育の部屋
努力してみます
2010 年 5 月 2 日 日曜日仕事の場面でも、勉強の場面ででも「努力してみます」という言葉はよく聞く。しかし、「努力してみます」と言っている人を信じられるだろうか。私は、ほとんど信じないし、一緒に仕事をしたくない。恥ずかしげもなく人前で「努力してみます」と言えるのは、今まで頑張ったこともないし、地道に努力などしたことがない人だろう。どんなに贔屓目に聞いてみても、自分には出来ないと宣言しているようにしか聞こえない。
「努力をしてみます」と言った瞬間に、言い訳をする布石は打ったぞとでも言いたげである。私には聞きたくもない嫌いな言葉に「もし」「でも」「たぶん」「出来ない」「不可能」などがある。全部、無責任であるし、責任逃れをしながら、自分は悠々としていたいというのが伝わってくる。
仕事でも勉強でも、やるかやらないかだけで単純明快である。それを「努力してみます」などと逃げ道を用意するから嫌になる。やるかやらないかだけだし、自分がやったことは、うまくいってもいかなくても責任をとればいいではないか。時には潔く謝ることも必要になる。しかし、こんな簡単に思えることが、出来ない人が多いのに驚かされる。
どうしてこうなったのか、少し考えてみる。まず、親の過保護であろう。過保護といっても、漠然としているから明確にしよう。親が、何でもかんでも手を出しすぎるのである。子どもが何か自分で選んだことがあるだろうか。ほとんど全部が、親が選んだことや物を一方的に子どもに与えている。子どもに選択する権利はないのだ。親の好み、良かれと思っての迷惑な押し付けで、子どもは自分で選ぶということができなくなっている。親が選んだことが、正しく最良だと飼いならされている。
こんな育てられ方をすれば、自分で選ぶとか自分からやるなどという自主性は生まれない。与えられなければ、自分からは動けないような人間が増えている。やらされることには馴れているが、責任は絶対にとらないだろう。なんせ、やらされたのだという言い訳があるから。そうなれば、責任をとるなどということは、とても無理な相談かもしれない。
それに、いまの親は、子どもに失敗をさせないし、痛い目にもあわせない。楽ばかりを教えているのだから、努力なんて知っているわけがない。まったく知らない努力なんだから、無責任にも「努力してみます」と現実味のないことをほざきながら、その場を取り繕う。せめて、努力してみますなんて言わないで、黙って真剣に取り組んでみろ。周りはいい加減な言葉に騙されないし、結果を見ているし責任くらいはとってもらうのは当たり前である。
親は子どもに、手を出しすぎない、守り過ぎない、レールなどは敷かない。子ども時代に、大いに失敗し、挫折し、傷ついたほうがいい。そして、自分でやったことは自分で責任を取らすようにしなければ、ヘンな大人が増えるばかりだ。
5月2日 矢野
