教育の部屋

怖いくらいでないと

2009 年 12 月 11 日 金曜日

昔といってもつい最近まで、子どもにとって怖いものは、自分の両親と学校の先生であった。「あった」と過去形でいわなければならなくなった。家にあっては、親父を怒らさないようにという暗黙の了解があった。

親父が怒ると、正座をさせられ、ビンタの何発かは覚悟しなければならなかった。それは、親父の怒りの時間が過ぎるのを、無抵抗で待つしかない時間である。それよりも応えるのは、母親が本気で怒って、涙を流しながらの説教は辛い。親を怒らせないようにということは、嘘をつくことでも、親の顔色を見ながら生きることでもなかった。暴れん坊には、どっかで親を悲しませないというブレーキをかけないと、行動がとりとめもなくなる。

学校においては、先生は絶対的な存在であった。先生に反抗するとか、先生を疑うなどということはまったくなかった。先生のいない陰でさえ「センセイ」であり、「センコー」などと言う者は一人もいなかった。もう、先生は圧倒的な存在で、神のごとくであった。だから、先生に怒られるとなると、もう一方的に「私が悪うございました」と謝るしかない。そして、学校とは神聖な場所であり、その学校に対して文句や抗議は言ってはならないものであった。親にしても、子どもを学校に預けるということは、煮て食うなり焼いて食うなり先生の好きにしてくれとお任せしたのである。学校で何かあれば、まず自分の子どもが悪いと頭を下げるのが、親の務めであった。何事においても、まず自分の子どもが悪いだろうというところからスタートしていた。「自分の子どもに限って」などという馬鹿な親はいなかった。

そして、我々は学んだ。生きていくということは、多分に不公平だし理不尽だ、何が正しいかは正確には分からないし、文句を言っても始まらない。だけど、生きていくうえで自分にとって怖い存在は必ず必要であるし、そういう人がいないのは非常に淋しいことだろう。

こういう風に育ってきた者たちは、誰に言われなくても親孝行である。そして、恩師というものを大事にし、友を愛している。そして、割合まともに生きている。

今はどうか。親にしても先生にしても、「大人がだらしない」の一言である。子どもと友達のようになりたい、子どもに好かれたい、話の分かるお兄さんやお姉さんでいたい。それは結構であるが、子どもに迎合しているだけではないか。子どもに迎合する大人ほど、醜くいもはない。

大人として大事なことは、必要なときには子どもをしっかり叱れること、怒るべきときには怒ること。自分の子どもなら、時には手を上げて、痛みで教えることも必要ではないか。それで嫌われるなら、あなたには大人の資格も何もない。

12月11日 矢野

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