教育の部屋

才能ということ

2010 年 5 月 12 日 水曜日

私は、長年にわたってスポーツと関わり、音楽の演奏者も見てきた。その中で、いろいろなレベルはあるが、世界と闘える、世界で勝負出来るような者も何人か見てきた。当然、そういう連中は、日本ではその道のトップレベルである。若い連中の目標となり、憧れとなるような者たちだ。そういう連中に限って、才能などという言葉はほとんど使わない。自分が、地道に努力してきたことに誇りを持っているのだろう。才能で片付けられたくないというのが、本心のところだろう。

私も何人かそういう連中を見てきたが、もし才能といえるものがあるなら、努力を継続できる能力を才能と呼ぶしかないのではと思う。それも、方向性のあった努力である。努力は必ず報われるというのは、嘘である。方向性の間違った努力をいくら続けても、そんなものは報われるはずがない。そういう意味での平等性はある。方向が間違っている努力なら、何もしないほうがまだましである。

方向性のあった努力が続けられるということは、素直な性格であるということが前提である。性格が素直でないと、自分が向上や成長しようと思っても、それに必要なヒントとなることを受け入れられない。自分の周りには、自分が伸びるために必要なヒントが数多く転がっているのに、素直でないとそれに気がつかない。伸びていく人は、教えてもらうのではなく、自分で気がつきそれをよく考えて自分に取り入れていく。

そういうことをしない人間に限って、自分が伸びないことを才能のせいにする。自分には才能がなく、あの人には才能があると簡単に片付ける。そして、そういうことが逃げ道であり、言い訳であることにも気づこうとしない。いや、そういうことを絶対に認めない。そう思うと、才能という言葉は、あまりいい意味では使われていない。

才能というから、いい意味に結びついていかない。潜在能力といえば、みんな持っているだろうし、それをどう刺激して引き出してきて発揮するかと考えたほうが、少し気楽になるかな。才能といって諦めるより、潜在能力を探したほうが明るくなるじゃない。

そして、バスケットのマイケル・ジョーダンや野球のイチローは、天才と呼ばれることを極端に嫌う。ジョーダンにいたっては、世界中で俺より練習をやった奴がいれば連れて来い、勝負してやると言い放つ。イチローに並ぶくらい練習をしている野球選手がいるか、それを抜きにして天才と呼ぶことは非常に失礼である。誰かに対して、あなたは天才だということは、何の度量も苦労のしないで何でも出来るんですねと、大いに人を馬鹿にした言い方であることに気がつかなければならない。信じられないことだが、天才と言われて喜んでいる人間がいるが、ここまでオメデタければ付ける薬もないわ。

5月12日 矢野

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