教育の部屋

教科書は要らない

2008 年 6 月 26 日 木曜日

教科書というものは、実際に教える先生が創るものではなくて、偉いと思われている人たちが創っている。例えば、大学の先生は中学生や高校生を教えたこともないのに、その教科書を創っている。現場を知らないで教科書を創るというのも、破れかぶれの勇気があったものだ。
そして、教科書を創っているときには、あれもこれもとアイディアを考えることだろう。しかし、その教科書を使う先生たちは、何も頭を使うことはない。教科書通りに、指導すればいい。ただの知識の受け売りである。そんなことをする先生も、面白くも楽しくもないだろう。それよりも迷惑なのは、そんな魂のこもっていない知識を、押し付けられる生徒たちである。私なら、情熱も感じられなくて聞かないな。
教科書があるばかりに、教育の現場は情熱を失って冷え切っていく。先生は指導に悩むこともなく、生徒は右の耳から左の耳へと聞き流す。教科書がなければ、先生は自分で、智恵を絞らなければならない。そして、自分が考えたことを伝えようと、それは熱がこもるだろう。そんな先生の熱意が、生徒たちに伝わっていくのが現場ではないだろうか。
私は、教科書は使わず、自分で資料を創る。これは、ナンバでも同じ事で、ナンバにはマニュアルもなければハウツーもない。ナンバをマニュアル化すれば、そこで進歩が止まってしまう。ナンバは、いつも変化し進歩を続けている。それを、本やテレビを通じて中間発表しているだけだ。だから、発表したときには、私たちの中では、すでに次に進んでいる。
なのに、私たちの講習を受けたり本を読んで、ナンバは解かったという人がいる。それは、ナンバに関して何も解っていない。我々がまだ答えにたどり着いていないのに、何故解るのだろうと、その思い上がりに開いた口がふさがらない。物事の表面だけなぞって解ったと思うのは、あまりに軽薄である。この軽薄さが、教科書やマニュアル創りに駆り立てているのかもしれない。
我々が最近忘れがちなことは、「自分で考える」「創意工夫する」「困難に立ち向かう」などではないだろうか。オートマチックにとか効率のみを目指したりすると、大事なものを置き忘れてしまう。経済主流の考え方を少し抑え、もう少し自分の身体と心で体験しなければいけない。

6月23日 矢野

サイト検索

カスタム検索

活動履歴

関連図書&DVD購入