教育の部屋

自分で考えろ

2009 年 9 月 18 日 金曜日

私は、高校生や大学生に「そんなこと自分で考えろ」とよく言う。それは、自分が誰かから「ああしろ、こうしろ」と言われることが面白くないからである。私は、人から言われるよりも自分で考えたほうが、はるかに楽しいしやる気になる。

自分で考えるとは、自分で工夫するということである。

私が、自分で考えろと言うと、まず困った顔をする。そして、眉間に皺を寄せて深刻そうな顔をする。それが間違っている。深刻そうな顔をしても、何も始まらない。真剣な顔をして、考えなければならない。

しかし、最近わかってきたことだが、多分何を考えていいのか困っているようだ。考えるということが工夫することだといっても、今まで工夫したことがないのである。小さいときから、こうすれば、こう答えが出るという机のうえでの勉強しかしてきていない。そして、遊びといえば独りでゲームに向かって、こう攻略すれば次に進めるというものばかりである。これでは、覚えることはできても、考えることはできない。

子どものときの、遊びが少ないのである。私がいっている遊びというのは、これだけの広場でこれだけの人数がいれば、どうやって遊べばみんなが楽しめるかという遊びである。そういう遊びを経験していれば、どうやって楽しもうかと考えることができる。子どもにとっては、どこでも遊び場になるし、どんな人数や歳が違っていても、みんなで楽しめるようにと工夫する。そういう遊びの体験が極端に少ない。それでは、自分で考えることはできないのかもしれない。

世の中は、勉強、勉強と言って小さいときから塾や家庭教師で子どもを机に縛り付ける。そしたら、覚えることは上手になるかもしれないが、本に書いてあることを覚えたところでなんになるのだろうか。必要があれば本を開けば、そこに書いてあるではないか。そんなことを覚えて、どうなるのだろう。記憶力が、頭を鍛えることではないだろう。

自分で考える能力は、机に座っているだけでは身につかない。仲間と自然の中で、どうやって楽しんで遊ぶかという体験をしないと身につかない。いってみれば、身体を使って考えるという体験が非常に大事になってくる。そのとき、大人の手や口を入れずに、子どもだけで遊ぶことが条件である。もし、大人も参加したいなら、遠くで黙って見守っているだけにしなければならない。大人が参加した時点で、遊びが遊びでなくなることもある。

この遊びの体験の少なかった者たちに、どうやって自分で考えさすようにできるかがいまの課題である。簡単に自分で考えろとも言えない、難しい時代なのかもしれない。自分で考えられる人は、幸いである。

9月18日 矢野

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