教育の部屋
落ち着いている場合じゃない
2010 年 4 月 14 日 水曜日三月の末から四月の頭にかけて、七泊八日で千葉の房総に桐朋中高のバスケットバールの合宿に行ってきた。今年の春合宿は、房総でさえ雪が舞うほどの寒さで、とても春といえるようなものではなかった。おかげで、合宿が終わり東京に帰ってきても、まだ桜の花が残っていた。
合宿中に中学生や高校生を観察していると、慌てないことに驚いた。練習時間が来ても慌てない、集合時間が来ても慌てない、その結果遅刻して物事が予定通り順調に運ばない。周りの仲間に迷惑をかけても平気である。要は、あわてなお出落ち着いてミスをしなければいいという考えである。周りの仲間の時間をどれくらい奪い、迷惑をかけようと、自分さえよければいいのである。たいしたものだが、多分普段から親に「慌てないで、落ち着いて」と言われ続けているのだろう。
食事のときなんか、それは見事である。おちょぼ口に食物を放り込んで、いつまで噛めば気が済むのだろうというくらい噛んでいる。これも、普段から「食べ物はよく噛んでから飲み込むように」と言われている見事な成果である。だから、お殿様かお姫様のお食事のように時間がかかる。速く食べ終わった仲間は、ずっと待っているのに関係なく食べられる神経。それも凄い。
集団で行動するときの食事というのは、それなりのルールがある。自分の都合で、気の済むまで時間をかけて食べていいわけがない。しかし、食事も落ち着いて食べるようにという親の指導がある。落ち着いて食べるのはいいが、周りに迷惑をかけているということも感じない無神経さは、放っておいていいものであろうか。
ふと思うことがある「なぜ、落ち着いて」と親は言い続けるのか、素朴な疑問である。社会に出たり、世の中に出れば、常に時間との勝負であり、締め切りとの勝負である。落ち着いてる場合じゃないことは、分かっているはずなのに。自分ひとりで、時間も充分にあり、マイペースで迷惑をかける人もいなければ、それは落ち着いて物に取り組めばいい。しかし、現実は、あなたの落ち着きが周りに迷惑をかけ、いつも間に合わないという結果を生んでいるではないかといいたい。
落ち着いている場合じゃない、周りに迷惑をかけないことが大事であるし、間に合わすことが大事なことである。何で現実性のない「落ち着いて」を言い続けるのか分からない。スポーツなどは、慌てて、慌てて、その中でどんなプレーが出来るかということである。落ち着いてやれるスポーツがあるなら、お目にかかってみたいものである。落ち着けるのは、休んでいるときだけだろうと思う。これから活動するときに落ち着こうとするのは、アクセルを踏まなければならないのに、必死になってブレーキを踏んでいるようなものだ。
4月14日 矢野
