矢野先生のコラム
愛読書
2008 年 1 月 29 日 火曜日本棚を何気なく眺めていて、つい手を伸ばして引き出す本がある。以前読んだ本が並んでいるので、またかということになる。私にとって、本のストーリいわゆる筋道はそんなに重要ではない。だから、何度でも新鮮な気持ちで、同じ本が読める。
例えば、最近も司馬遼太郎を読み返している。まず読みながら、何故こんな表現をするのだろうという興味で読む。表現というのは、言葉遣いやさまざまな話しの進行のさせかたということを含めて広いのだが、そこを何故だろうと考える。
司馬遼太郎の本を読むと、漢字とひらがなのバランスを非常によく考えて欠いている。漢字が、1ページの半分以上を埋めないようにという配慮だろうと思う。「かんがえる」と出てきたり「考える」と出てきたりする。他にも、これで1文節になっているのかなと思わすところもある。喋り言葉と書き言葉ということもあるが、あくまでも読みやすさを優先させているように思う。
本の中の文字を追いながら考えること、そして行間を眺めながら考えること。本を読み進む楽しさは、次には司馬遼太郎の頭の中はどうなっているのだろうという興味を沸かすことである。本を読み進みながら、司馬遼太郎の頭の中を考えている。何で、何でと答えの出ない問いを発しながら、考えることも楽しい。中学生の頃から今まで、司馬遼太郎を読み続けているが、飽きるということもないし、いつも新しい発見がある。そういうのを愛読書というのだろう。
しかし、愛読書となるような作家は、そんなに多いわけではない。司馬遼太郎のほかには、吉行淳之介や安部公房、開高健などである。ほとんどは、一回読めば忘れて、もういいやという本が多い。二度、三度と手にして読む本が増えてくると、本棚がなんだか豪勢になったような気がしてくる。
これは一人の作家が書く本を、次々と読破していく楽しみとは、また違った楽しみかたである。
映画にも、何度見ても飽きずに楽しめるものがある。
矢野
