矢野先生のコラム

日本人はどこへ行った

2009 年 10 月 28 日 水曜日

先日、富士山に初めて登ったという話を聞いた。山小屋で一泊して、ご来光を拝みにと登っていって、もう少しで頂上というところで高山病にかかり、全身の感覚がなくなって動けなくなったということである。

確かに高山病は恐ろしいが、ではどうやって気をつければいいかということも個人差があってなかなか難しい。その、高山病にかかって動けなくなったというのは、私が授業で指導している女子学生であるが、身体は感覚がなくなっても耳だけは聞こえていたという。そして、道端でうずくまっていても、日本人は見てみない振りをして誰も手をかしてはくれなかったらしい。「大丈夫ですか」と声をかけて。手を差し伸べてくれたのは韓国人のグループだったということだ。

そして、韓国人のグループの人たちは、日本人の女子学生を背負い少し下山して、少しでも酸素の多い所に運んでくれ、自分たちが持っていた酸素ボンベをすべて彼女のために使ってくれたということだ。少し回復してきて、もう大丈夫だからと、酸素ボンベ代だけでも払おうとしたが、韓国人のグループの人たちは頑なに受け取ってくれなかったという。そして「困っている人がいて、助けるのは当たり前のこと。それに対して、礼を言われるようなことではない。」と言って、元気になったことを確かめると、名も告げずに行ってしまったという。

この話を聞いて、日本人はどこに行ってしまったのかと思った。昔のといわなくても、私が小さいときや土佐の田舎ではこんなことはなかった。雨に濡れている人がいれば、黙って傘を差しかけてやるのが普通だと思って育ってきた。しかし、そんなことをすれば、変な人と思われたり、何か下心があるのではと疑われるようになった。何かが狂い始めている。

韓国人のグループは、当たり前のことをやったまでだというが、立派である。日本人は、どうした。こんなでは、なかったはずだ。困っている人を見ても、見ぬ振りをして通り過ぎていく日本人とは情けない。何かがおかしい。街でも、田舎でも、危険は確かに増えてきた。しかし、誰が危険かを見分けなければいけないし、みんなが危険なわけではない。まして、道端でしゃがみ込んでいる人を見ても、声もかけられないなんて、それでも人間かといいたくなる。

あまりに人間として当たり前ということが、失われている。何とかしなければ、日本人というだけで信用されなくなる。自分の身の回りの何人かからでも、人間として当たり前ということを確認しながらやっていきたいと思う。本当に情けない。日本人は、こんなではなかったはずなのに。

10月28日 矢野

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