矢野先生のコラム

顔が変わった

2009 年 9 月 30 日 水曜日

最近の若者の顔を見ていると、色が白くてツルッとしてラッキョウを思い浮かべる。我々のころと比べると、それは上品に見えるし綺麗でもある。しかし、何か迫力にかけ、それでも男かといいたくもなる。

テレビなどで時々、60年代や70年代の安保や学生運動のフィルムを見ると、あの頃の若者たちは、いやに大人びているし老けているようにみえる。それは、生きていることに真剣であったろうし、考えていたと思われる。今の若者もそうだろうというが、今の若者は、自分一人の小さな幸せしか考えていないだろうと映る。自分一人が競争に勝ち、自分だけ就職し、自分だけお金を稼げばいいというようにみえる。

60年代や70年代の若者は、自分のことはさておき社会のこと大学ことなど公のことを第一に考えて行動していた。それが、正しかったかどうかは分からないが、エネルギーはあったことは確かである。大げさにいえば、日本をどうするかで動いていた。そして、社会に出て、自分の非力さを知り挫折したものもあるだろうし、自分のできる範囲でやってきた者もいる。それにしても、何もしないで指をくわえている者たちよりは、はるかにいい人生だと思う。

私は、何もしないで失敗しない者よりも、果敢に行動して失敗する者を大いに評価する。今の若者たちは、失敗を恐れて行動しない。「こんなことをしても」と理屈が先にきて、行動する前に諦めている。何がやりたいのか、自分自身で分かっていない。そんなことが、顔つきに表れているのではないだろうか。

顔つきというのは、その人の歴史を著わす、その人の歴史である。どんなことを考え、どんな行動をしたかという体験が、おのずと顔つきに表れる。今の若者は、あまりに体験が少ないのではないか。机に座っての勉強ばかりで、身体を使っての体験が少なすぎる。まさか若いのに、アンチエイジングでもないだろうと思うから。「若いね」と言われることは、褒められているのではなく馬鹿にされているのだとも感じないみたいだ。これは、歳をとっても同じだと思う。「若いね」ということは、「幼いね」「成長していないね」というのと同義語だと理解してもらいたい。それは、顔つきにしても体つきにしても同じことだ。

人間の内面が、顔つきや体つきに表れるのは、よく知ってのとおりである。アンチエイジングだのと大声で叫ぶことは、非常に恥ずかしいことである。人は、日々成長し学ばなければならない。それは必ず、顔つきや体つきに現れるはずである。だから、顔つきや体つきには責任を持たなければならない。それらは全て、自分の歴史である。

街中からツルッとしたラッキョウ顔が減らないと、明日の日本は大丈夫だろうかという不安は消えない。我々世代ももちろんナンバらなければならないが、明日の日本を背負って立つ若者たちもナンバってもらわなければどうしようもない。ラッキョウ顔を減らすために、大人たちはもっと若者に厳しく当たらないといけないのかもしれない。私も心してこれから、ラッキョウ顔に対していきたいと思う。

9月30日 矢野

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