音楽の部屋

音楽を表現活動とするなら

2009 年 4 月 13 日 月曜日

私は、音楽の専門大学に勤めているので、音楽に関する話も耳に入ってくる。
例えば学生は、「私の音楽で感動してもらいたい」「音楽は世界の共通語だから音楽を通して対話をしたい」「音楽で私の気持ちを伝えたい」などと言っている。どれも正解のようだが、全部間違っているようにも思う。

音楽で感動してもらいたいというのは、画家が自分の作品をどう見られるかを考えて描いているかと想像すればすぐに分かる。感動させてやろうと思うこと自体が、邪念であり非常に嫌らしい思いだ。人を感動させてやろうと思ってやったことで、誰が感動するというのか。それは、非常に低級な演出であり人間を甘く見ている。画家は、自分の作品がどう見られるかなど考えず、自分の表現として絵を描く。その作品を見た人が、勝手に感動しているだけの話である。スポーツでも、選手が観客を感動させてやろうと思ってプレーすれば、それはまったくの茶番劇になってしまう。選手が集中し懸命にプレーしている姿を見て。観客は勝手に感動するのである。

音楽を通して対話を行いたいというのも、どう対話するのかわからない。自分の音楽を一方的に聴いてもらうというなら分かるが、どう対話するのだろう。聴いている人が満足するように、自分に妥協してでも要求に応えようとするのか。どうも言葉遊びのような気がしてならない。音楽で対話するという言い方は、非常にロマンチックである。しかし、その中身はというと、あまりに曖昧すぎて深い霧の中である。それと、観客の反応なんか気にしていて、自分の音楽に集中できるものか。

音楽で自分の気持ちを伝えるというなら、少しは理解できる。音楽が表現活動なら、自分の気持ちを音にして伝えることだろう。しかし、その伝え方を考えなければならない。日常のコミュニケーションでも、ナカナカ自分の気持ちが伝わりにくいことを経験している。言葉であってもそうなのに、音楽で自分の気持ちを伝えるのは大変な作業だと思う。そこで、どうせ大変な作業なら、音によって自分の世界を創るようにすればいい。自分の世界が出来れば、聴いている人はその世界が好きか嫌いかの選択しかない。自分の創り出した世界を好きと言ってくれる人だけが集まってくればいい。
表現活動というものは、表現という一つの世界を創り、それを世に問うことだと思う。世の中に迎合せず、媚びへつらうことなく、毅然とした姿勢で自分の世界を作り出し世に問えばいい。それが、芸術やスポーツの、表現活動としての捉えかたであろう。

4月13日 矢野

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